沿革
この大改修により、3年に1回と言われたほどたびたび洪水による被害に見舞われていたが、標高14mの堤防の築堤により治水上の安全を得た。この河川大改修にあわせて下流域の農業用水は大改変に迫られ、12ヶ所にあった??門のうち11ヶ所を合同統一して1916年(大正5)に岡山県知事を管理者として設立されたのが高梁川東西用水組合である。
1907年(明治40)から1925年(大正14)にかけて、高梁川下流域では大改修工事が内務省直轄工事として行われた。
この大改修により、3年に1回と言われたほどたびたび洪水による被害に見舞われていたが、標高14mの堤防の築堤により治水上の安全を得た。この河川大改修にあわせて下流域の農業用水は大改変に迫られ、12ヶ所にあった??門のうち11ヶ所を合同統一して1916年(大正5)に岡山県知事を管理者として設立されたのが高梁川東西用水組合である。
1907年(明治40)から1925年(大正14)にかけて、高梁川下流域では大改修工事が内務省直轄工事として行われた。